おれはずーーーーーーーーっと
『お母さんに迷惑をかける自分』
を切り離し続けてきた。
きっかけがなんだっかなんて思い出せない。
状況から鑑みれば、
母親は当時20代中盤の女の子で
おれは長男で初めての子で
ほぼ1年しか違わない弟がいて
『ちゃんとしなくていはいけない』
環境だった。
覚えてはいないが、母親から聞いた話では
お出かけの時に
自分で靴が履けなければ、置いていく。
っておれに言ってたらしい。
それを言葉を聞いた時に、大人になった今でさえとんでもない焦りを覚える。
当時のおれにとってのプレッシャーたるや。
おれはとにかくなんでも早くやる。早くやれる。早くできる。
気づいた時にはそうなってたから、そういう人間なのかなと思ってたけど、きっと実際はそうじゃない。ただ単に幼い頃に焦らされて、自分を追い立てる中で、最速で物事を進めることに慣れてしまっただけだ。
衝動で動くタイプだから、気が乗らないことに対する熱量がとんでもなく低い。本当は。やらなくてはいけないことも、やりたくない時は死ぬほどやりたくないのだ。
そういう意味では、心と身体は自分がやるべきことを本当によく知っているなと思う。極論だが、気が向かないことは、やらなくていいのだ。誰かにやって貰えばいい。その代わりにきっと、誰かの気が向かないことに、自分が気が向いてやってしまうということが世界では起こるんだ。そういうことにしようよ。もう。
話脱線しまくったんだけど何が言いたかったかというと、切り離し続けてきた『お母さんに迷惑をかける自分』を、お迎えしたよってこと。これを『許す』と表現する場合もあるのかもね。俺の場合は、あの日のちっちゃいおれが見えるんだよね。イメージで。そいつをおいでってして、自分の中に取り込む、溶かす、融合してひとつになるって感じかな。その時にさ、すごい癒された感じとともに、『すごい、寂しかった』感じがしたんだよね。結局こういう禁止とか抑制とか思い込みってのは感情とセットなんだね。感情とセットで封印されているというか、奥底にインプットされてるというか。『設定』されてんのよ。だから、思い込みはプログラムで、感情はパスワードって感じかね。設定プログラムを見つけて書き換えるのに、そのプログラムを設定した時の感情を感じてやらないと書き換え権限がもらえないみたいな。
こゆのって多分結局『融合』が全てなんだと思うけど、それの捉え方、やり方、実感の仕方が人それぞれ合う方法ってのが違ってくるんじゃないかと思う。その辺に、視覚優位、聴覚優位、体感覚優位みたいなものもあるかもしれん。
こういうワークっぽいやつってさ、知ったり聞いたりしてやってても、準備が出来てない時って思考が反応して無視すんのよね。宗教っぽくてこれやばくね?みたいな独り言始まって、心の奥底にある気持ちに気づかせないように、バリア貼りまくってる感じ。
すげーまえに本読んだ、ホオポノポノっていうのが自分との向き合い方で1番イメージ近い。今思うと。本読んだ当時は色々書いてあることやったけど、さっき言ったみたいにバリア張りまくってて全然何も変わらなかったもんね。
それで今思ったのは、あの時はなんで効果がなくて、今は効果があるのか?ってこと。そもそも色々やったのにバリア張りまくりで何も変わらないでいたのに、(その時はバリア張ってる自覚なんかないけど)ワークの効果が出始めたきっかけはなんだったんだっちゅう話。
あの時と、今で何が違うのかってことよね。何が違うと思う?それでハッとしたのは
あの時は『私=自分を変えたい』と思ってた。
今は『私=自分じゃない。自分は変わらなくていい』と思ってる。
まーだから、自分を変えたい時には、重要なプログラムにはアクセス出来ねえってことなのか?
1番大事なのは、『自分』を思い出すってことかな。『私=自分ではない!』という事実を。
世間でよくいう『諦めろ』とか『私を手放せ』の意味が全然わかんなかったけど、今ならわかるしもっと違う言い方あるじゃんて思う。『諦める』『手放す』ってのは、その前段階で、『私』と『自分』は違う概念、別物であることを理解というか受け入れておかなきゃならない。それを踏まえて
『『私』による支配を、諦める』
『『私』による支配を、手放せ』
ってことなんよ。
私にできることはない。と諦めて、自分に委ねろよってこと。このへん理解してない人はまじで何言ってのかわかんないよな。ほんとごめんよ。
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