知識、感情の奥にある思想こそ表現すべきじゃない?

僕たちが何かをアウトプットする時に、その中身(コンテンツ)となるのは、知識と感情を、それ単体もしくは合わせ技で表現することがほぼ全てだ。人間の1番多い表現はおそらく『会話』だと思っていて、その会話においては、知識と感情のキャッチボールがなされている。でも、ここでひとつ考えて欲しいのは、知識も感情も、『結果』であるということ。何の結果か。それは『思想(≒考え方)』を基に導き出された結果だ。僕たちはいつも、『結果』どうしを擦り合わせようとしている。元々の前提が違う計算式から導き出された結果を、無理やり同じにしようとしているのだ。だから、どちらか、もしくは双方に無理が生じる。僕たちが本当に表現し、もし擦り合わせようとするならば、それは結果である知識、感情ではなく、その奥にある『思想』の方ではないか。私はこういう思想である。だから、この状況、場面で、こういう知識を採用し、こういう、感情が現れる。という計算式の1番最初の思想をこそ、お互いにフラットに認識すべきなのである。

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